一般に知られる怨恨とされる事例は以下の様なものである。
悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任されて面目を失った。光秀は悔しがり食器を池に投げ入れた(『川角太閤記』)
まだ敵地の出雲・伯耆もしくは石見に国替えを命ぜられた(『絵本太閤記』)[8]
八上城戦で母を信長のために死なせてしまった(『総見記』、『絵本太閤記』)
武田家を滅ぼした先勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったのを信長が聞き咎め「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされて恨んだ(『祖父物語』)など
別本『川角太閤記』には、光秀が小早川隆景に宛てた書状として「光秀ことも、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたい」ために信長を討ったという記述が見られる。また個別の事例は江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な史料に残る怨恨の事例は少ない。
桑田はルイス・フロイスの『日本史』に、「変数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」という記述を根拠として、武士の面目を立てるためであったとする新たな怨恨説を唱えた。
四国征伐回避説
信長の四国征伐を回避するため乱を起こしたとする説。
四国では、土佐の長宗我部元親が明智家臣斎藤利三と姻戚関係を結び、光秀を通じた信長との友好関係の下で統一を進めていた。一方、敗走した阿波の三好康長は秀吉と結び、旧領の回復を目指した。長宗我部氏による四国統一を良しとしない信長は、天正10年2月に元親へ土佐・阿波2郡のみの領有と上京を命じた。これを、元親が拒否したため、神戸信孝(信長の三男・四国征伐後に三好家の養子となり三好家を継ぐことが内定していた)を大将として四国征伐を行うことになった。
まず、康長が先鋒として四国に入り、6月2日には信孝、丹羽長秀らによる本軍が大坂より出陣する予定であった。
四国政策変更の問題については高柳、桑田いずれも指摘している。桐野作人は、さらに踏み込んで利三主導説を唱えている[9]。
焦慮説
光秀は織田家譜代の家臣ではない新参者であり、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間であるにもかかわらず、信長家臣団の中で有数の重臣となった。これは光秀がきわめて有能であったこともあるが、信長個人の信任があってこそのことが大きい。しかし信長は個人的信任が揺らいだ際には家臣を容赦なく処罰していた。2年前の天正8年(1580年)には佐久間信盛・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝といった重臣が大量追放されている。
逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚
このため信長の信任が揺らいだと考えた光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったという説がある。また、この説は怨恨説や野望説の背景としても用いられる。
信任が揺らいだと考えたとされる理由
対四国政策の失敗[10]
光秀がかつて足利義昭の家臣であったため、義昭追放後には光秀に対する信長の心証が悪化した[10]。
羽柴秀吉の中国征伐の援軍が光秀であり、援軍は光秀が秀吉の格下となるものだという説。ただし、光秀はこれ以前にも播磨神吉城・三田城攻めの援軍を行っている。
谷口克広は当代記にある光秀の年齢が67歳ときわめて高齢であったことを指摘し、反面嫡子光慶が十代前半ときわめて若年であったため、自らの死後光慶が登用されないことを憂いて謀叛を決意したという説を立てている
黒幕説
信長を討つことについて、光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定し、その者の意向を背景にあることを指摘する説としては、以下のようなものがある。
足利義昭説
自分を追放し、備後に追いやった信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。三重大学の藤田達生教授が中心となって主張されている。また、桑田忠親もその可能性を指摘している[10]。
日ごとに権力を増す信長に脅威を抱いた朝廷は、信長の朝廷に対する忠誠心を計るため、天正10年(1582年)に「いか様の官にも任ぜられ」(どのような官位も望みのままに与える)と記された誠仁親王の親書(誠仁親王御消息)を送る。しかし信長は、親書を届けた勅使に明確な返答をしないまま返してしまう。
天皇を軽んじた信長の態度に朝廷はうろたえるが、それ以上に信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めることを恐れた足利義昭は、かつての家臣・明智光秀に信長暗殺を持ちかける。信長によって閑職へ追いやられた光秀はこの申し出を受け、信長の天皇謁見を妨害するため本能寺の変を計画したとされる。
藤田はこの説を裏付ける証拠として、本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝に協力を求めて送った使者が、「御当方(上杉のこと)無二御馳走(協力)申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに上杉より身分の高い人物への協力を促していること。加えて本能寺の変直後、光秀が紀州雑賀衆・土橋重治へ送った書状に「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と、光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉を使っていることを挙げ、光秀の背後に足利義昭が存在したと主張している。また織田家家督織田信忠を実際に討ったのも義昭の重代の臣である伊勢貞興(室町幕府政所伊勢氏)であった。
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭の繋がりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などが根拠となるが、この説に対しては、義昭を庇護していた毛利氏が(定説によれば)本能寺の変を知らなかったことについて説明が付かないとの反駁がある。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずとの考えがこの反駁の根拠となる。
この反駁との関係では、毛利氏が本能寺の変を知っていたかどうかについて異説があり、太閤記や佐久間軍記などでは、和議の時点ですでに毛利氏は本能寺の変の発生を知っていたとして描かれており、小早川隆景が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。また、紀州の雑賀衆にすぎない土橋重治ですら、光秀に対して信長討伐の協力を申し出ていることから、毛利氏が本能寺の変を知っていたとしても不思議ではないとする考えもある。
朝廷説
朝廷黒幕説には、中心となる黒幕として、正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆を主体とみるかについて意見が分かれる。
「三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考えたことを根拠の一つとして挙げる。光秀は、信長・信忠を討った後、朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、山崎の戦いの後、織田信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜したこと、吉田兼見が事情の聴取を受けていること、更に当時の一級史料である『兼見卿記』(兼見の日記)の原本内容が本能寺の変の前後1か月について欠けており、天正10年の項目は新たに書き直していた、という点も、朝廷黒幕説を支える根拠とされている。
「三職推任問題」は、本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上、信長が即答可能な問題ではないこと、京への立ち寄りの理由の1つは、それへの返答にあったと考えられることは、上記根拠への疑問を投げかける(信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある)。
さらに近衛前久は本能寺の変の当日または数日後に出家しており、これを細川藤孝の出家と同様、信長に殉じたと解釈するのが適切と見る見解や、後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などが反論として挙げられている。信孝捜索も上記の信忠戦で屋根に光秀軍を上らせ殲滅させたことを咎めたのではないかという説がある。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなく仮説の域を出ない。特に誠仁親王に関しては、変に際して二条御所で危うく巻き添えになりかけたことが、朝廷説への反論として言及されている。
2007年になって1992年に『兼見卿記』を基にした『信長謀殺の謎』を上梓している桐野作人が、インタビューの中で、ある研究者に『これは一種の陰謀史観だよ』と言われたことや、「そのころは古文書のくずし字がほとんど読めなかった」ことを告白し、自説を批判している[12]。
朝廷の関与を否定する説も、否定しない説も、信長と正親町天皇の関係については、退位を要求したとする点に着目する説と、反対に、天皇自身の退位希望を信長が受け入れなかった点に着目する説とに分かれるが、前者が天正元年12月8日の『孝親日記』、後者が天正9年4月1日の『兼見卿記』の記述を挙げてることが多く、信長の皇室政策の時期的に相違する部分の一部を捉えて自説の論拠として挙げる傾向が見られる。
暦の問題について、天正11年の1月の京暦の中に雨水が含まれずに本来中気が入ってはならない閏1月にずれてしまうという太陽太陰暦の原則に反した錯誤が生じていたが、武家伝奏であった公家の勧修寺晴豊の「日々記」の天正十年夏記六月一日によると、信長はこれを死の前日まで公に指摘していた。これも朝廷に対する己の優位を示すためのキャンペーンのひとつであったと捉えるか、信長式の尊王的態度の表れだと捉えるかでも、争いがある。
そのほか、晴豊の「天正十年夏記」には斎藤利三の処刑の日に「六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。」という記述があり、これを「利三(ひいては光秀)と朝廷側の人間が『信長ヲ打ツ』謀議(談合)を持っていた」と解釈する説もある。[13]
また、フロイス「日本史」における信長神格化の記述をもとに、信長神格化が朝廷と相容れなかったとする指摘もある(この点の最近の指摘者として井沢元彦[14])。ただし、フロイスの記述の信憑性から、看過ないし黙殺する説が比較的多い。(→動機と首謀者に関するその他の考察参照)
いずれの説によっても朝廷財政の最大の負担者となった信長が朝廷の意思決定に介入しうる立場にあり、両者に軋轢があったことを認めている点にほぼ争いはなく、信長の行為と介入のどの要素を選択してどう評価するかにより、説の展開が異なっている。
一方、変の後に朝廷側が綸旨や太刀の下賜などで、光秀を顕彰・賞賛した動きはなく、光秀も勅命によるものであるという主張をしていない。光秀がたとえ朝廷側と連絡していたとしても、その恩恵を全く得ていないことになる。[4]。
イエズス会説
立花京子が提唱した、イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。ここでは「信長政権そのものが南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」、とされている。更に大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとされ、イエズス会の最終目的は明帝国の武力征服であり、結局の所、変は信長から秀吉に首をすげかえる為のものに過ぎなかった、としている。この説に対する反論としては「信長はイエズス会から資金提供を受けていた」という点に関し、当事の会の定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上はインドに送金されており、そもそも会を維持運営するのにも事欠く有様であったことなどが挙げられている。この他にも立花の史料の扱い方に関する問題が、江戸時代の信用に欠ける『明智軍記』などを検証無く多数引用する、など谷口克広の2007年の著作[4]に提起されている。
羽柴秀吉説
信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への水攻めにより殆ど戦力を失っていなかった事から事前に変を知っていたとする。また秀吉にとって都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収め、また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い説[15][16]。
羽柴秀吉 本能寺の変の黒幕説
徳川家康説
徳川家康説は、状況証拠が多いに留まるが、天海僧正(南光坊)=光秀説により、 興味ある内容となっている。首謀というより、変に賛同、支援ないし、事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったというもの。これも歴史小説ではよく触れられる。
変の直前の天正10年5月15日 家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となったが、「これらの催しごと(家康の饗応)の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対を言われることに堪えられない性格であったので」光秀を折檻し饗応役を解いた、とフロイス「日本史」にある。
ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、「太閤記」にあるような「魚が腐っていた」といった ような表の理由ではなく、実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説が多い。
裏づけとする史書の記述として、フロイスの「日本史」が続いて、光秀の京都への反転に際して 「兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝り始め おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を 殺すつもりであろうと考えた。」という部分、また、江村宗具の「老人雑話」の、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺におわしました。 信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂堺を見せよとつかわされたのだが、 実のところは隙をみて家康を害する謀であった」とある部分が著名である。
またあわせて主張される点として以下のようなものがある。
正妻の築山殿、嫡男の松平信康の誅殺命令にあるように、織田と徳川は後世に美化されたような「同盟」という 対等の関係でなく、徳川は織田にとって、使い捨ての駒に過ぎず、 東方平定のためには、早々に完全に弱体化させるか滅ぼされるべき存在に過ぎなかった。
信長の敵対者である伊賀忍者に守られた逃避行は、後世、光秀方に誅されることを恐れたものとされるが、 本来は信長方に誅されることを恐れて事前に準備されたものだった、ないし、 自己の関与を否定するための演出であった。
天海僧正(南光坊)=光秀生存説については次のような事例をあげるとともに、家康の光秀に対する称揚と受け取られる行為に注目する説も多い。
光秀の首とされたものはすでにかなりの腐敗の進んだ状態で実検された。
天海僧正の前半生は謎。しかし軍議に参加し家康が信任するほどの手腕。あきらかに通常の僧侶でない。
比叡山に、慶長20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれた石灯籠が存在する。
光秀の位牌を祀る大阪の本徳寺に残存する光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」という裏書があり、そのまま読めば光秀は仏門で余生を送ったという意味である。
斎藤利三の娘である春日局は、初対面であるはずの天海に対して最上礼である「平伏」をした上で「お久しゅうございます」と述べた。
東照宮陽明門の武士木像、鐘楼の紋は明智の家紋である「桔梗」である。
家康は、光秀が所有していた熊毛の鑓(やり)を何故か所有しており「これは名将 日向守殿の鑓である、日向守の武功に肖れ。」と付言して従兄弟 水野勝成に与えた。
家光の「光」と、秀忠の「秀」で、合わせると「光秀」。(ただし、秀忠の秀の字は秀康と同じく秀吉からの偏諱である。)